- こうして、女子聖の中2、17名を引き連れ、8月3日、軽井沢セミナーハウスに乗り込んだ。このとき、実は女子聖の集団に、一人の若き研究者T氏が同行していたのだが、彼がこの後、キャンプの中で大きな役割を担うことになる。
- このころ、ニフティサーブの教育実践フォーラムの国語科の部屋と授業作りの部屋で、活発にディベートの実践が話し合われていた。そこへ彼が、我々のやり方は時代遅れだと言って乱入してきたのだった。しかし、話を聞いても、よくわからない。
- それじゃ、キャンプに来てもっと詳しく話を聞こう、ということもあって、彼も参加することになったのだった。
- 上野から軽井沢までの特急の中で、彼のディベート理論についてじっくり話を聞いた。その結果、折伏されてしまった。(今から思うと軽井沢まで、じっくり話を聞いたり、モデルディベートを行う生徒の指導を入れたりする時間があったんだよなあ。)
- 女子聖の生徒達の他に、色々な面々が軽井沢へと集まってきた。
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姓
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名
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学校名
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参加教師
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1
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筑田
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周一
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女子聖学院中学校
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2
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高橋
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伸周
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女子聖学院中学校
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3
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池田
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修
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昭島市立瑞雲中学校
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4
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藤川
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暁子
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元金城学院中学校
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5
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藤川
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大祐
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大妻女子大非常勤講師
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6
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上條
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晴夫
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ネットワーク編集長
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7
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西部
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直樹
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ディベート・トレーナー
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8
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喜岡
|
淳治
|
江東区立深川第八中学校
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9
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久保
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薔子
|
中央大学
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10
|
上村
|
祥子
|
中央大学
|
|
11
|
T
|
T
|
東京大学助手
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12
|
細田
|
香織
|
大妻女子大
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13
|
松本
|
明子
|
大妻女子大
|
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14
|
佐藤
|
仁美
|
愛知県立中村高校
|
|
15
|
長谷川
|
貴子
|
南山国際高校
|
|
16
|
笠井
|
千香子
|
名古屋市立守山東中学校
|
|
17
|
笠井
|
雅直
|
富士大学
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18
|
若月
|
安明
|
田尻小学校
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参加生徒
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19
|
久保田
|
奈緒
|
女子聖学院中学校
|
|
20
|
小林
|
彩華
|
女子聖学院中学校
|
|
21
|
鈴木
|
晴子
|
女子聖学院中学校
|
|
22
|
大塚
|
千尋
|
女子聖学院中学校
|
|
23
|
建部
|
麻衣子
|
女子聖学院中学校
|
|
24
|
出川
|
あかね
|
女子聖学院中学校
|
|
25
|
河
|
昌美
|
女子聖学院中学校
|
|
26
|
原島
|
利佳
|
女子聖学院中学校
|
|
27
|
平山
|
良枝
|
女子聖学院中学校
|
|
28
|
藤田
|
茉莉
|
女子聖学院中学校
|
|
29
|
村上
|
みどり
|
女子聖学院中学校
|
|
30
|
秋本
|
美也子
|
女子聖学院中学校
|
|
31
|
得平
|
沙恵
|
女子聖学院中学校
|
|
32
|
大島
|
那奈子
|
女子聖学院中学校
|
|
33
|
川名
|
美代
|
女子聖学院中学校
|
|
34
|
瀧
|
玲
|
女子聖学院中学校
|
|
35
|
H
|
S
|
女子聖学院中学校
|
|
36
|
森
|
有子
|
女子聖学院中学校
|
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37
|
澤田
|
香
|
江東区立深川第八中学校
|
|
38
|
小西
|
京子
|
江東区立深川第八中学校
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39
|
茂清
|
菜
|
江東区立深川第八中学校
|
|
40
|
久保
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直人
|
東京大学付属高校
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41
|
樺澤
|
豪
|
東京大学付属高校
|
|
42
|
佐藤
|
克己
|
東京大学付属高校
|
|
43
|
小針
|
望美
|
昭島市立瑞雲中学校
|
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44
|
大谷
|
千乃
|
昭島市立瑞雲中学校
|
|
45
|
志茂
|
雪
|
昭島市立瑞雲中学校
|
|
46
|
徳村
|
翔子
|
昭島市立瑞雲中学校
|
|
47
|
染谷
|
久海
|
昭島市立瑞雲中学校
|
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48
|
田中
|
千鶴
|
昭島市立瑞雲中学校
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49
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太田
|
友美
|
昭島市立瑞雲中学校
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50
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栃木
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孝典
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東京大学
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- 初めは皆のリレーションシップを高めようということで、ゲームを行った。担当は筑田。その後、池田氏によるディベート講座。ここで早くも波乱が起きる。生徒以外のところから、いろいろとレクチャー中に「それはおかしい」とか「その論は間違っている」とかクレームが入るのだ。ゼミなんかだと珍しくはないのだが、教師の話を黙って聞いていることに慣れていた生徒達は大分びっくりしていた。
- そしてまた夜は花火の後でお楽しみ会。池田氏が担当。ゲームあり、軽音楽部の演奏あり、私も一曲披露し、藤川氏もギター片手に一曲歌ったりとなかなか楽しい時間だった。ここで、若き研究者T氏は雑学の広さを披露していた。
- その後、夜を徹して、ディベートについて、参加した教師、研究者間で熱く語り合った。そして、翌日の午前の予定を変更して、T氏の言う「ポリシーメーキング」によるディベートというものをやってみよう、ということになった。
- 翌朝、T氏によるレクチャーが始まる。しかし、字は汚いは、言葉は難しいは(Tさんごめんなさい)で板書は藤川夫人、通訳?は藤川氏が担当。このレクチャーの中で、プランからメリットデメリットを導き出す方法として、その道筋を図で示す方法が披露され、その場で「リンクマップ」と命名される。
- そして、論題「日本はサマータイムを実施すべし」で実際に試合を行うことになる。(ここから後の様子は「教室ディベートへの挑戦第2集」に、「熱き議論の渦の中で 日本初!中高生のディベートキャンプ ディベートキャンプIN軽井沢の報告」として上條氏が詳しいリポートを載せている。)T氏対西部氏という、今ではちょっと考えられない豪華なモデルディベートも行われる。
- この日の夜は、突然「明日やる団体戦の審判の基準を明確にしたい」とか何とかで、シークレットディベートと銘打って、池田氏対、喜岡氏で試合を行うことになった。「筑田さん、手伝ってくれ〜」と池田さんに頼まれて、動かぬ頭にねじりはちまきをして、立論を考えたが、大して役には立てなかった。とにかくアドリブで次から次へとさまざまな企画が生まれてくるので目まぐるしかった。
- しかし、そうした動きの中で、「これならディベート甲子園が立ち上げられる」という確信が生まれていった。
- 最終日、社会人・中高生混合チームでの団体戦。そして最後は若月先生の南京玉すだれの披露があって、怒濤の3日間は幕を下ろしたのだった。
- ディベート合宿in千葉
夏休み後半、教育ディベートに関わる指導者達が一同に会し、ディベート合宿in千葉が行われた。今ではディベート甲子園の会場として有名な幕張の、オプタで行われた。ここでのモデルディベートは、「日本は学校教育にディベートを導入すべし」という論題で、肯定側西部直樹・別所栄吾氏、否定側岡山洋一・西澤良文氏という豪華な顔ぶれて行われた。ぼくは計時係をやっていた。準備時間が持ち時間制なので、壁に貼ってある時間の表に、使った時間だけ斜線を入れていく係。
ディベートにおけるさまざまなテクニックを披露するという目的で行われたこの試合、勝敗以上に、試合までの準備の方法など、学ぶことが多かった。夜は岡山氏を囲んでディベートに関するさまざまなノウハウを学び、その後岡本先生の部屋で西澤さんを連れてきて、朝方まで話し込んでいた気がする。
ここで、ディベート甲子園開催に向け、それぞれの団体の協力が確認された。
- 交流戦
- 11月3日、女子聖学院の文化祭での昭島市立瑞雲中学校との交流戦は、2つの論題で1試合ずつ行うことになっていた。対戦するのは、瑞雲中学校の3年生と女子聖学院中学校の2年生。第一試合、論題は「日本国は医師にガン告知を義務づけるべし」。第二試合は「源氏の武将達の最後のことば、「あ、射たり」と「情けなし」で、与一の心情に近いのは「あ、射たり」である」。夏休みの宿題として中二全員がリサーチをして準備をしてきた論題である。
- いよいよ、試合開始。さすがに瑞雲中の生徒は落ちついている。中二の一年間、毎週二時間ずつディベートを学んできたという強者だ。その様子はNHKのことばテレビで紹介されていたし、ディベート研究会でもモデルディベートを行ったりしていて百戦錬磨という感じである。立論の内容もよく頭に入っている。ただ原稿を読んでいるのではなく、聴衆に自分たちの主張を訴えかけてくる。例えば、根拠として用いる本の取り上げ方についても、なぜこの本が信用できるかを丁寧に説明する。同じ条件では不公平と作戦タイムを多くとれるという形でハンデを与えてくれた。そのおかげか女子聖側も必死に食らいつく。結果的に1勝1敗。ガン告知は瑞雲、扇の的は女子聖が勝利を収めた。事前のやりとりで瑞雲中の池田先生と「一対一くらいだといいですね」と言っていたとおりの結果となった。しかし、瑞雲の生徒は負けたことがかなりショックだったようだ。昼食に出た弁当にほとんど箸がついていない人もいた。受験生で、前日に合唱祭を終えたばかりで、中間テストや三者面談も入っていたという過酷な条件下、わざわざ相手をしてくれたことを知ってうちの生徒たちも感激していた。そして2年後のディベート甲子園での再会を約束して別れた。(こののち、本当に97年、98年の関東大会で、立川高校対女子聖学院という形で対戦は実現した。)
この日、読売新聞社事業開発部の久保さんが交流戦を見学に見える。そして、この試合後、滝野川会館に場所を移して、昼から夜までぶっ続けでディベート甲子園のルール作りが行われることになる。まさにこの日、ディベート甲子園は実現に向けて大きく一歩を踏み出したのだった。
- クラブ発足
きっかけは高校生新聞95年12月号に載った藤岡信勝氏のディベート甲子園参加への呼びかけ
だった。記事のコピーを中2の各教室に掲示しておいた。その記事を見て、ディベートキャンプ、瑞雲中学との交流戦に参加した森有子が有志を募ってディベート研究会を発足させた。96年1月のことである。「先生、中三になっても授業を持ってくれるんですか。」「さあ、わからないなぁ。別の学年に行っちゃうかもしれないねぇ」そんな会話を森とした記憶がある。せっかく授業でディベートを学んだのに、来年ディベートができないのではつまらない、そんな思いからディベート研究会を発足したようである。新聞記事の掲示はしたが、生徒がディベート部を作ろうと動くとはほとんど考えていなかった。だから、顧問を引き受けてくれと依頼されたときには感激だった。(結局、森は中3、高1、高2と3大会続けてディベート甲子園に出場することになる。)
- ディベートキャンプin熱川
軽井沢までは手作りのキャンプという感じだったが、このキャンプから読売新聞の事業開発部の人々も加わって、いよいよ本格的にディベート甲子園への動きが始まったな、という感じになった。女子聖学院ディベート研究会は、発足したものの、1月2月と活動らしい活動もせずに時間だけが過ぎていた。ディベートをしようにも、論題が決まらない、リサーチの余裕がないといったことが原因だった。そして三月末のこのディベートキャンプイン熱川を迎えた。このキャンプへの参加が実質的な初めての活動となった。ディベート研究会のメンバーのうち、七名がこのキャンプに参加した。東京駅から、梶原 建二氏と、立川高校進学が決まっていた瑞雲中学の舞木さんたちを一緒に連れて、東海道を熱川へと向った。ちなみに、梶原さんに敬語を使っていたのは言うまでもない。
関東支部としても全国大会を振り返ってみても思い出深いキャンプだ。川畑 直樹氏率いる八潮中学の面々が元気いっぱいに目立っていたり、創価高校の飯塚 浩氏がその勢いに圧倒されて帰ろうかなあと不安になっていたり、若葉台西中学校の北村 明裕氏がじっくりと講義をメモしていたり、温泉で光が丘中学校の藤岡 幹根氏と挨拶したり、そんなキャンプだった。(どんななんだ)
- 中高生のためのやさしいディベート教室
去年、今年と瀬能さんと私で5月に「高校生のためのやさしいディベート教室」を行ったが、前身はこの企画である。5月6日に行われた今考えると中学生と高校生を一緒に教えるというのはけっこう大胆な企画だったなあと思う。女子聖からも中3、6名が参加した。振り返ってみると、講師の上條さんの髪形を見て、「気合い入っているねえ」などと言っていたあたり、その後のふてぶてしさをかいま見る思いがする。
創価高校の朝妻君もこの講座に参加していた。
しかし、何と言ってもこの講座に渋谷幕張の浅野さんが、内田さんとともに参加していたのだった。しかもうちの生徒たちの隣に座っていた。
今年の東海大会でも「あの子は浅野さん二世と言われているんですよ」とか、全国大会でも、「先生、浅野さんみたいに上手な人がいます!」とか、半分伝説になりかかっている存在の、「あの」浅野さんである。この講座の時から「切れる」ということは評判になっており、その後の練習試合でさらにその評価は高まっていったのだった。
- 関東支部発足
全国大会が終わって、羽村市立羽村二中を引率していた小林 浩一氏の強い働きかけで、関東支部が発足することとなった。ことの成り行きで関東大会運営委員長を仰せつかり、事務局長が決定していた聖学院小学校の池内 清氏とともに、学習院大学に佐藤喜久雄教授を訪れたのは、10月3日のことだった。事前に藤岡 信勝氏から連絡していただき、内諾は頂いていた。支部長を引き受けていただくことを前提として、ディベートが保守的な国語教育の中で受け入れられていくためには、どうしたらいいかという課題を示して下った。ディベート甲子園での早口問題を特に取り上げ、この後、早口問題に関しては一貫して警鐘を鳴らし続けて下さることになる。教育の中にディベートの根がしっかりと張っていくためにはどうしなければならないかということをいつも念頭に置いていて下さっていた。先生のご尽力で、翌年第1回の関東大会は学習院大学で開催された。
初めてお会いした日から、目白駅前の焼鳥屋へ行って飲みながら話を伺った。5分で大学までこれるのに、帰りは8時間もかかってしまうという話に親しみを感じたものだった。支部会を学習院で行うと、決まって奥からビールを持ってきては振る舞って下さった。まさに人生の達人だった。(佐藤先生は98年1月に逝去された)
関東支部発足で、教室ディベート研究会も、関東支部主催となり、現在に至っている。