2日目。脇町高校との戦い。
質疑の丁寧な応対が非常に印象に残る試合だった。
試合の方は結構余裕をもって、勝つことができた。
さあ、あとは創価戦だ。
東海高校が創価に負けたという。となると、創価に勝てば2勝1敗で3校が並んで抽選に持ち込める。
ということで、急きょ東海高校と仲良しになる。
直前で新たに出された試算、実はあれをうちのチームは持っていなかった。
なぜかというと、まず僕は新聞を取ってない。
学校で読売、毎日、朝日は読めるので、それを毎日利用しているから。
ところが、夏休みの間は学校は新聞を止めちゃうんだよね。
ということで、僕は手に入れられない(近所の図書館に行けば良かったと気付いたのは、大会が終わってからだった。)
生徒たちはなぜか朝日新聞を読んでいる者はいなかった。
で、デメリットを潰すためにこの資料は欲しいなあと思っていたので、東海高校のカードをお借りして、コピーさせてもらった。(なぜか僕が走るんだよなあ、こういう時って。)
東海高校には「僕らも勝つから、絶対創価に勝て!」と檄を飛ばされ、試合へと臨んだ。
試合に関しては、大石君の「僕とディベート」に詳しい。
ということで、別の話。
会場に行って、おや?と思ったのは、関東大会でジャッジをしていただいていた篠さんがいらっしゃったことだった。まさか、創価の指導を時々していたとは知らなかったので、顔を見て、ちょっとドキッとしてしまった。
というのも、うちのチームは篠さんに非常に無礼な態度をとっていたからだ。関東大会でジャッジをしていただいたとき、試合の後で判定に納得がいかない、と散々食ってかかった。
「私はこう言ったのに、なんでここは取ってくれなかったんですか!」
「いや、だからそれはね…」
温厚な篠さんの顔色が青ざめて見えた。
「後で説明するから、もうやめなさい」
そんな風に制止するので精一杯だった。
おかげで、女子聖学院の悪名はジャッジの間にとどろいていたのである。
その篠さんが、なぜうちの試合を見に来たのだろう。
そんなことを考えていた。
試合の方は、デメリット2が予測できなかったというよりも、質疑から反駁への連携の見事さが印象に残った。特に小山君の反駁がは上手だった。こちらのプランとメリットの発生過程との不整合なところを実に見事に突かれてしまった。
練習試合の時から格段に上手になっていたことに目を見張る思いだった。
ということで、完敗。高校のレベルは高いなあ、と痛感させられた試合だった。
控え室に戻ってくると、脇町に勝った東海高校が駆け寄ってきた。「ゴメン、負けた」と言ったときの彼等の落胆した顔は今も瞼に焼き付いている。
中学の方は、昨日2勝していたのだが、八潮に負けて2勝1敗になっていた。そして、八潮、愛光と並んでしまったために抽選になっていた。結局はずれを引いて中学も決勝トーナメント進出はならなかった。
「ようし、遊びに行こう!」
ということで、会場を後にし、いったんホテルへ戻ってから散歩に出かけた。ディズニーランドに足を伸ばすでもなく、海岸へでて、ぶらぶらとマリンスタジアムのあたりを回っていった。マリンスタジアムの前では、「千葉県出身の慶應大学の高橋由伸君をマリーンズに入団させよう!」といった署名運動が行われていた。
暗くなって戻ってくると、ちょうど、神田外語大学から戻ってきた創価のみんなと一緒になった。顧問の飯塚先生が興奮気味に近づいてくる。
「いやあ、こうして決勝戦まで勝ち残れたのも、筑田先生にあの夜、アドバイスをしていただいたからなんですよ!」
あの夜?飯塚先生と夜を過ごしたことなんてあったっけ?
よくよく伺うと、熱川で行ったディベートキャンプの時に、スタッフが先生方の部屋を回って、質問に答えたことがあったのだった。その時に、飯塚先生の部屋を尋ねて話をしたのが僕だった。
なんでも飯塚先生は、キャンプの雰囲気に圧倒されて、荷物をまとめて帰ろうかと思っていたそうなのである。
で、もしあの時帰っていたら、今日の決勝進出は無かった、というリンクだったわけ。
うれしいような、かなしいような、そんなお礼の言葉だった。
最終日。京葉線で新木場に出、新都市線で国際会議場前下車。
目の前にビックサイトがそびえる。
去年はオリセンからバスに乗っての移動だったから、ちょっと新鮮な気分。
今年は国際会議場より1階下の大部屋に他の学校と一緒に荷物を置いて、試合を観戦することになる。
たしか高校の3位決定戦を見ていたときだったと思う。
江戸取の山中君が声をかけてきた。
「これから控え室で敗者のたわごとディベートをやるので、ジャッジをしていただけませんか。」
控え室に行くと、すでに試合の準備が行われていた。
肯定側に東海高校、否定側に江戸川学園取手高校。決勝でぶつかってもおかしくない顔ぶれだ。
司会は函館ラサールの男の子がやってくれた。
審判は僕を入れて5人。決勝戦と同じ。
うちの藤田が飲み物を差し入れてしていたような気がする。
非常になごやかな雰囲気で試合は行われた。
判定はジャッジが一人ずつコメントをしていく形で行われた。僕だけ東海に入れたんじゃなかったかな。
たしか3番目のスピーチで、ここで江戸取に入れてしまうと決着がついてしまうから、という理由で(!)東海に入れた。
翌年から、決勝に勝ち残れなかったチーム同士が、ここで試合をするのが恒例のようになっていく。
さて、中学の決勝戦が行われている間に、そんなことをして、会場に戻ってくると、もう高校の決勝がはじまる直前だった。
決勝戦は創価のうまさが光った試合だった。
大石君の早口は、結局改善されなかったけど、見事な試合だった。
余談だけど、この後、早口問題について大会関係者が集まって会議が開かれたことがあった。実に有意義な議論がされて、その議事録をそのまま雑誌に掲載しようという話にもなったのだけど、その議事録を取っていた僕が、コンピュータを壊してデータを紛失してしまい、実現できなくなってしまった。
で、その会議の時に、早口問題に警鐘を鳴らし続けていた、当時の関東支部長の佐藤喜久雄学習院大学教授が、大石君のスピーチに関して、「あれがマックスだ」という見解を示された。
梶原建二さんも、「自分の能力をフルにしぼって、何とか書き取れる限界だ」という話をされていた。
そのくらいギリギリのレベルで展開された議論だった。大石君の頭の回転の速さを証明する事例と言うこともできるかもしれない。
まあ、できればあそこまで速くしないで、議論がまとめられていけばいいかもしれないね。
そんなこんなで、97年のディベート甲子園は、創価の優勝で幕を閉じた。
3位は豊島高校。あのストラテジーは、僕はハッキリ言って好きじゃないけど、ああいうディベートもあるんだろうね。(これは再三再四近藤さんには言ってるんだけどね。)
終了後、チームのみんなが、引越祝いだと言って魚の形をした箸置きをくれた。
そう。僕はこの夏、一軒家に引っ越すことになっていた。
ディベート甲子園の翌々日に。
関東大会2日目には、家に帰ったら三男が迷子になって一日大騒ぎだったという話も聞かされた。
一家の主としては、失格の夏だったなあ。