会場について予選リーグ表を見た。去年関東地区4位だった駿台甲府は、予選5組だったので、その辺かなと思っていたのだが、今年から九州地区の出場校が6に増えたことなどもあってかなり予想と違っていた。予選8組、修猷館高校、県立岡崎高校、県立新居浜東高校と一緒。おととしの決勝戦で負けた修猷館と予選で戦うことができる。去年、見学に来ていた部員達は、修猷館と南山国際の試合のビデオを見て、修猷館の試合に憧れていた。その憧れのチームと戦えることで、純粋に喜んでいた。
決勝トーナメント第一回戦 肯定:下館第一高校
- 否定:女子聖学院 2−1で敗戦
4日のリハーサルが終わり、神田外語を出た当りで、この大会ずっと面倒を見てくれていた卒業生が「今日の敗戦なんですけど、私が原因かもしれません。」と言い出した。「実はビターチョコ買っちゃったんです。」
女子聖学院ディベート部には、いくつかのジンクスがある。たとえば、第三回大会の時に、僕がチョコレートが食べたくてあちこち聞いて回ったのだけど、近所にコンビニがなくて手にはいらなかった。で、決勝トーナメント第一回戦で負けた。それ以来、必ずチョコを用意することにした。第五回大会の関東予選。いつもは明治のミルクチョコを買ってくるのに、たまたまミルクチョコがなくて、ビターチョコを買った。偶然に生徒達もみんなビターチョコを買っていた。そして初めての関東敗退。以来、ビターチョコは女子聖学院では絶対買ってはいけないものとしてタブーになっていた。
そんな懐かしいタブーを引っ張り出してきて考えたくなるほど、部員達のパフォーマンスは今大会最高の出来だった。
この試合の前、否定側になったことで、決勝トーナメント用の立論に切り替えるか、それとも予選で2勝している立論のままで行くかを相談した。本来ならすんなり決勝トーナメント用に切り替えるところだったが、そのまま予選の立論でいくことにした。理由は、決勝トーナメント用の立論は下館第一に知られているということだった。下館とは28日、31日と練習試合をしていた。31日に直接試合をしたわけではないが、こちらが試合をしているときに見ていたはずだった。逆に予選用の立論は、下館は偵察要員がいないので知られていない。
ということで予選用の立論でいくことにした。
問題は相手がどの立論で来るかだった。予選では新しい立論を出していたが、ジャッジに理解してもらえず負けていた。それを手直しするのか、それとも今まで練習試合で使ったものを持ってくるのか。僕は真正面からぶつかってくる、と予想した。ここまで来て、何か策を弄するような相手ではない。
試合が始まると予想通り、練習試合で使っていた立論のままで勝負をしてきた。この立論の弱点は、解決性が示されていないこと。そのことは練習試合の時にも何度も指摘していた。だから予選では出さなかったのだし、彼女達も苦労したのだと思う。解決性の議論を補うかわりに、内因性の議論を増やしてきていた。
それでも解決性が崩れてしまえばこのメリットは取られなくなってしまう。ここの攻防が勝敗を分けると言っても過言ではなかった。
ただ、下館の面々は一騎当千のつわものと言ってよかった。たとえば、僕は多少立論が弱くても、相手が高校生だったら何とか勝ちに持ち込むことができると思う。それだけのスキルは身につけているつもりだ。彼女達もそうしたスキルと経験値を十分に持っている。何しろ質疑と第一反駁担当者は中学の時に全国3位になったときの下館南中のメンバー。特に第一反駁担当者はあの瀬能さんをして「ディベートマシーン」と呼ばしめた逸材だ。彼女は3位チームでありながら、ベストディベーターを獲得してもいる。
また第二反駁担当者は秋季関東大会でベストディベーターを獲得している。
したがって、ちょっとでもこちらがスキを見せれば、確実にそこをついて形勢を引っ繰返すだけの力を持っていた。
ということで、試合はものすごくハイレベルな議論の応酬となった。
こちらの否定側第一反駁は、修猷館との戦いで自信を深めたのか、素晴らしいスピーチを展開した。相手の提示したガンの痛みが解決可能であること、少なくとも死なせてほしいというレベルの痛みは残らないこと、そしてその技術が現在広く普及していること、さらに大学での教育によりさらに普及していくことを提示した。
また解決性に関してもどれくらい望む人がいるのか、いたとして条件をクリアできるのかしたがっていたとしても非常に小さいメリットだということを反駁した。
この反駁に関しては、一緒に見ていた早稲田の青木君とは「コミュ点を捨てて勝負に出たな」という話をしていた。とにかく今までで一番論点を示して強力なネガティブブロックを作ることに成功したので、多少のコミュ点の低下はやむを得ないかなと考えていた。しかし、上から順番に丁寧に反駁をしていったことで、ジャッジはうんうんうなずきながら書き取ってくれていた。結果として14点という非常に高い点数をいただくことになった。
これは意外だったが、しかし、今後のコミュ点のつけ方について一つの示唆を与えてくれたと思う。つまり速ければ何でもダメだということではないということだ。
たしかに今までで一番速いスピーチだったが、原稿を読み上げるだけのスピーチではなく、ジャッジに聞き取りやすいように気を配りながら、話していた。特に数字が沢山出てくる資料を読み上げていたが、速すぎて書き取れないということはなかったし、アイコンタクトも極力意識して伝えようという意志が伝わってくるスピーチだった。修猷館対策で昨夜特訓したことが大いに生きていると感じた。
これに対する肯定側第一反駁。「ディベートマシーン」の面目躍如といったすごいスピーチだった。セオリー通り、デメリットへの反駁から入る。
社会による圧力は残すと価値の比較で肯定側が不利になる。ここでは固有性の議論をして現状でも圧力があることを示し、現状との差がどの程度あるのか証明していないという反駁をしかけるのが定石だ。
しかし実際には社会的弱者すべてといっても突然死は入らない、周りに依存している人がどのくらい他者に依存しているのか、圧力を感じるというが勝手に感じるだけだ、オーストラリアで圧力を受けたというが、一部とはどのくらいか?法を撤回したのは圧力ではなく、実施しようという医者がいなかったからだ。個人より集団の秩序を重んじてしまうというが、それも家族に対する愛情表現の一つだからいいではないか。医者による圧力というがどの程度圧力がかかるのか。プランの3のCで本人が希望する手段でもとれないときと言っているから他のホスピスでのケアなども熟知してそれを選べる。またインフォームドコンセントのガイドラインを作り、一体となって極力患者の意向に装用にするので、圧力は起きない。
これだけの反駁をまず仕掛けてきた。
そしてメリットの再構築に移っていった。
内因性の議論では、痛みをとる技術があるという反駁に対してそれは正しく使った場合の話でどのくらい使われているかは使われていないという資料を1点目で述べたことで切り返した。さらに普及しているという反駁には非常に苦しいという反論を返した。しかし、デメリットへの反駁を厚くした分、メリットの再構築に関しては十分に返しきれず、とくに解決性の議論にはほとんど触れることができなかった。
ということで準備時間に入ったが、その時の第二反駁担当者の顔を見て、「あ、大丈夫かな」と一瞬心配になった。デメリットについてこれだけ厚く反駁を返してきた第一反駁というのは修猷館戦でも体験していない。これだけの反駁を返すことができる存在と言ったら、他にはおそらく創価のT君ぐらいなものだろう。パニックに陥っていなければいいが…というのが僕の心境だった。
しかし、反駁が始まってその心配はまたもや取り越し苦労だったことがわかった。
デメリットの再構築から入りながら、しかも「長期的な視点」というボーティングイシューを提示しつつまとめていくではないか。オーストラリアの事例への再反論では「オーストラリアは気づいたんです。国が守るべき弱者にたいしてプレッシャーを与えるような政策をするべきではないということに。これは法があるかぎり永遠に続くデメリットなんです。」とじつに説得力あふれるスピーチを展開していった。
そしてメリットで相手が落とした論点をキレイにまとめ、幸福な死という重要性は現状で可能であり、プランをとれば逆に精神的苦痛の中で死ぬというデメリットが起こることを示した。
この反駁を聞いて「否定側第二反駁の方法をつかんだな」という手土妙を感じた。とにかく修猷館、下館第一という難敵と対戦することでぐんぐん成長していることが感じられた。
いよいよ最後の肯定側第二反駁になった。
このスピーチもさすがというものだった。まずデメリットの評価から入り、社会的圧力がどのくらいのものか、立証していないこと、法制化による圧力がどれくらい申告なのか証明していないこと、医者による圧力はプランで抑えることが可能なこと、深刻性の末期が辛くなることに関しては今つらくないと言っていないこと、不本意な死は発生しないことなどを返してきた。
ただ、第一反駁からの一貫した反論ではなく、一か八か、ニューでも取ってもらえばもうけもの、という捨て身の作戦に出たという感じだった。
そしてメリットに関しては、100%とれなければ意味がないこと、幸福な死に関してたとえ数はわずかでも、やるべき。人の幸せとは生きることが大切だといわれてきたが、本当にそうなのか?心から苦痛を取り除いてほしいと考える人にはその選択肢をあたえようではないか、脳死判定もケースは少ない、しかし法制化によって大きな改革になる。その大きな一歩が踏みだせる。例えわずかでも希望するものは安楽死を選択し、そうでないものは自分の希望する死に方を選択すればいいという、新たな一歩を踏み出すことができるというスピーチを展開した。
関東の練習試合でも、彼女はこうしたスピーチを展開することが多かった。それに対しては、確かに感動的だが、だったら立論でそのことを述べるべき。第二反駁でいくら述べても、ジャッジは新しい議論としてとってくれないよ、と指導していた。
しかし、結果として彼女の最後の捨て身のスピーチがジャッジを動かしたようだった。
内因性をつぶし、解決性は証明責任を果たしていないメリットが残って、肯定側第二反駁で深刻性をわずかにつつかれたデメリットが、圧力は発生するがどのくらいの深刻性があるか不明ということで二名のジャッジが肯定側に投票した。
いろいろ言いたいことはあるが、決勝戦で見たかったというのなら、五人ジャッジで結果を聞きたかったわいな。
試合後、みんな泣いてたけど、僕自身もちょっとダメージが強くて、立ち直れなかった。負けたらリハーサルで試合をしてくれと言われていたので、了承したけど、もう、気が抜けちゃってたね。
真剣勝負というのが、いかに生徒を成長させるものか、肌で感じただけに、あともう少し、試合をやらせてあげたかった。
リハーサル後、花火に合流。その後、開成の諸君を誘って海辺へ行く。
みんなで「バカヤロー!」と叫ぶ。嗚呼青春。
しかし、こんなに悔しい思いをするのって、それだけ打ち込んできたからだよね。
中途半端な思いなら、こんなに煮えくり返るような悔しさは感じない。
本気で優勝を狙っていたし、その自信があった。だからこそ、それを達成できなかったことが悔しくて仕方がない。実際、三位決定戦を見ても、ファイナルを見ても、この子達だったらこう戦っただろう、という思いがぬぐいきれなかった。
なんだかすっかり気落ちして、ホテルに帰ってうとうとしてたら、卒業生から呼ばれて、早稲田の立論を見てあげることになったのだが、頭痛が酷くて全然役に立たなかった。
まあ、創価には強力な先輩がいるから、僕ぐらいが手を貸してもアンバランスにはならないだろうけどね。でも、全然だめだった。
深刻性の議論など、本当はきちっと見てあげれば良かったのだけれど。
それでも、ファイナリストらしくいい試合を展開したと思う。
もちろん創価もね。
それにしても、と思う。この半年、関東支部の事務局長として練習会の開催に奔走し、ジャッジが集まらないとに悩み、自分のチームは後回しにして、とにかく練習会の運営に支障をきたさないように腐心してきた。
生徒達は最初の頃は本来の目的を忘れて、リサーチが楽しくなってしまった何て言っていた。その後、試合をしても試合をしても、勝てない時期が続いた。レギュラーを固めて、やっと流れが見えてきて、少しずつ議論ができ上がってきて、関東大会直前に突貫工事で仕上げて、死のリーグを勝ち抜き、駿台甲府に勝って、全国を決めた。そして31日の練習試合で三勝して自信をつかんで臨んだ全国大会だった。
その間、僕は彼女たちに何をしてやれただろう。練習試合の相手さえしてやることができないほど、忙しかった。
関東のレベルアップのために働き続けてきたけど、それは相対的に、自分のチームの地盤沈下を招いていたのではないのか。早稲田や下館一に反駁の仕方や議論のポイントを丁寧に教えてきたのは、実は愚かなことだったのではないのか。もっとエゴイストに徹して、自分のチームだけ、勝てるように囲い込んで練習をしてきたほうが良かったのではないのか。
そんな悪魔のささやきが、頭の中をぐるぐる回っていた。
でも、決勝のコメントで松本茂さんが言った一言で僕は救われた。
「決勝に残った二校はその背後にある先輩達や地区の他の学校に感謝しなければいけない。」
ああ、そうだ。そうだった。
僕たちが悔しい思いをしている背後にも、関東を勝ち抜けず悔しい思いをしている仲間がいた。江戸取のみんなは来年を期して、今回はレポーターとして活躍してくれている。駿台甲府や、甲陵や、渋幕や、よきライバル達との戦いを経て僕たちはここにいる。
そうした関東の仲間達との切磋琢磨の中で、生徒達は鍛えられ、成長してきたのではなかったか。そして全国大会の場で、経験を積むことで、さらに成長したのではなかったか。
だとするならば、僕たちの進んできた道は間違ってはいない。僕の苦心してきたことも間違ってはいない。
関東へ戻って、全国大会で得た経験を伝えていこう。秋季大会や後期論題大会や練習試合など、あらゆる機会を通じてお互いに切磋琢磨しあっていこう。僕が伝えられることのできるだけのものをみんなに伝えていこう。そうしてさらにいい試合、みんなが刮目するような試合を、関東でできるようにしていこう。
来年また新たな伝説を生み出すために。